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カエルのケロケロレポート  2000年6月18日
第7回日本死の臨床研究会
関東支部大会

*はじめに*

テーマは「日本人のスピリチュアリティ」。森岡さんの前にはノンフィクション作家の柳田邦男さん、東海大学健康科学の村田久行さんが講演されていました。

今回の森岡さんの話はほんとに感動的。そんな話を会場にいる人たちだけで独占なんて許されないっ!と思い、森岡さんの生の言葉にできるだけ忠実に書いてみました。講演は約1時間。では、はじまりはじまり〜。
 
 

私が死ぬとき、実際最後までじたばたしちゃう気がする。柳田さん村田さんのお話は非常にためになるし素晴らしいお話。しかしこの私は、じたばたして死ぬのかもしれないな、と。なぜかと言えば私はあの世を信じることができないからだ。私の高校時代の親しくしていた友人が亡くなった。彼はあの世にいるとは思えない。その辺にいるのだろうと思う。私は死ぬのはいやだとか、死ぬのは怖いとか、泣きながら死んでゆくかもしれないと思う。死にたくないって思いながら、もっと生きたいと思いながら死んでゆくのでは。納得しながらじたばたしながら死んでゆくのも、スピリチュアリティなのではないか。死に向かって準備してゆく教育がある。でも向かうべき死というのがわからないのなら、いくら準備したってだめじゃないか。そういうときに、死というのは何か、ということです。今日の話は全部個人的な話です。私はあえて挑発的に言っているが。

私は宗教とも科学とも言えずに、第3の道を作らなければだめなんじゃないか、という立場にいます。死後どうなっているか、というのは仮説。天国があるのか、地獄があるのか、どれも決着がつかない。その時に物語が動員され、癒やしとなる。極端に言ってしまえば、宗教というのはあるひとつの物語にすぎないという人もいる。あの世を信じられない私たち、宗教をもたない人間にとっての死とは何か。その人が、魂の痛み、死と向かい合ったときにどうするのか。私たちはどこから来て、どこへゆくのか。これまで宗教がこの問いに答えてくれていた。しかし、宗教をもたない人が決着をつけようとしたときにスピリチュアリティの問題がでてくる。

結論から言うと、私は答えをもってません。私のリアリティは「あの世はあるかどうかわからない。死んだらどうなるかわからない。」私は死について考え始めたときから、こういうやっかいな生を生きている。私が消えるということがどういうことかわからない。死について考えるのは怖いからやめる、でもまた考える・・・そう繰り返す。それはとても恐怖。考えている私そのものが立てなくなるような恐怖。考えながら泣けてしまいそうな恐怖。やはり、それは「私の消滅」という問題だからだ。私が死んだ後この世界は続いてゆくのだろうか。私なしで続いてゆくのであろうか。私なしでこの世界は動いているのだろうか。そう考えているのはこの私。けれど、私がいないという世界を考えることすらできないというのが、私が消滅するということ。それはものすごい恐怖。だから考えるのをやめてしまう。いつか死の恐怖を消す薬というのが開発されると思う。私は恐怖を感じるのも恐怖だし、恐怖を感じないのも恐怖だと思う。

あの世を言う宗教には死がない。この世では死という現象があるが、あの世では生き続けられると説く。生もないけど死もないという宗教もある。宗教の考えに乗る限り、わたしが今言った死の恐怖に直面することがない。宗教には死がないから。宗教を信じられない人たちが直面するのは、死はあるという事実。そのところからスタートしなければならない。ほんとはすごい問題を、宗教に乗らずに生きる人たちは抱えている。小学校のときから私は、こういうことをぐちゃぐちゃと考えてきた。その時の行動は2つあった。ひとつは、たいがいの場合考えるのをやめてしまう。もうひとつは死はあるから「だから今を精一杯生きなきゃ」となる。でも今の私は違う。「いとおしさ」が沸いてくるようになった。私にとって世界は終わる。二度と世界は現れない。その時世界はいとおしい。ものがあるということがいとおしい。いまものを感じられる、ものがあるということは、素晴らしい。いや、「素晴らしい」ではなく、日本語で言うと「いとおしい」。そのときなぜか泣けてきちゃう。恐怖があるから泣けてきちゃう。いとおしさがあるから恐怖がある。恐怖があるからいとおしい。目の前にいまマイクがある。このマイクがあるということがいとおしい。鉛筆がある。それはざらざらしている、それがいとおしい。それを感じられなくなるときが来るというのを知っているからいとおしい。寝ている人を叩き起こしたいくらい。その人に教えてあげたい。ここに、マイクがあるぞ。(会場笑)

すべてがいとおしくなる。人間だっていとおしい、人じゃなくても、マイクだっていとおしい。児童虐待やナチスだっていとおしい。しかし当然ですが、児童虐待は許せない、ナチスだって許せない、でも私が伝えたいことの次元をみなさんに伝えたいから過激なことを言います。つまり、暴力すらもいとおしい。そこまで言うのも、私の消滅があるからなんです。それは癒やしではないと思う。言語化しなくてはいけないのだが。

いまの世の中は条件付きの愛に満ちている。東大に入れば愛してやるとか。いつの時代でも無条件の愛は難しい。私は条件付きの愛を押し進めている社会を批判している。でも人々に、無条件の愛なんていつの時代でもないじゃないか、と言われる。しかし、無条件の愛はあるんだろうと私は思う。それは私の消滅を徹底的に考えたところから。人間じゃないものを人間のように愛す。瀬戸内海のヘドロすら、家族や好きな人と同じようにいとおしい。無条件のいとおしさ。存在に対するいとおしさ。こういう次元の話は間違いなくスピリチュアリティのこと。そして、いましゃべっているということもいとおしい。でも恐怖はないのか?というとあるんですよ。ドフトエフスキーの「悪霊」に銃殺刑になるというのに生き残った人が描かれている。刑場につれて行かれるとき、その時風景のすべてがいとおしいという描写がある。濃密な風景。これは宗教の言葉で語っていないから、宗教じゃないです。

いつまでも生きていたい、という私の意思を裏切って、私を連れ去ってゆく無慈悲さ。無に押し流してゆく無慈悲さ。否応なく消滅させる力。死の恐怖から目を逸らすために、つくった文明。それはいろいろな哲学者が言っている事実です。しかし、私を否応なく連れ去ってゆくものを否定する、それが文明という見方もある。その力を克服しようとする。死が無慈悲に連れ去ってゆくなら、私はその前に自分で決着をつける。それを私はコントロール尊厳死と言っている。私は自分自身に運命を与えよう、私のプランどおり人生を終わらせよう、というところまで現代は来てしまった。

運命というのは神話、物語で語られてきた。現代文明というのは運命を手に入れようということ。それはなぜか。死があるから。力に反旗を翻すのが、現代文明。望みどおりに人生を終える、それこそが現代文明の究極の姿。なれの果て。よき死を迎えるというのは、ある意味優生学に近くなる。生のコントロール、死のコントロール。いま私は現代文明のひとつの側面を言っている。開き直りではなくて、それを克服しようとできないのだろうか。逆らい、もがいているのが現状。そういう中に医療全体が組み込まれ、その中に末期医療が組み込まれているということ。

そこからスタートして、私は無になる、と考える。しかしそれは実証されない証明されない観念の問題。リアリティなのだ。私がこの世に生きた証を残したい、というのは観念なのだ。そんなもの残したって死んだ後世界は消滅するかもしれないのだから。結局、死がある場合のいとおしさ、それも観念しかしその時に、それは宗教を持たない人にとっての死生学であるかもしれない。癒やしが与えられるという話でもない。決着をつけなくてはいけないのは、私の観念との問題である可能性が高い。生きた証というのは柳田さんがクリアに言ってくれた。私が私以外に伝えたいものがあるのか。受け継ぎというものがあるのか。血が受け継がれているという人もいるが、じゃあ不妊症の人はどうなるのか。生きる証としての国家という危険な問題もでてくる。結論がでないまま私は死んでゆくのかなというかんじがします。

 


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