Kael Studies Homepage > このページ

 

カエルのケロケロレポート
2000年7月2日シンポジウム
「いのちと死をみつめる・・脳死、臓器移植に関する法をめぐって・・」

 
 
*はじめに*

パネリストは上智大教授で森岡さんが批判してる「町野案」の町野朔さん。同じく上智大教授であり哲学者でもあるホアン・マシアさん。そして、司会はまたまた上智大教授の青木清さん。まずパネリストひとりひとりが30分ずつお話して、そのあと、会場の人々を交え質疑応答が行われました。このシンポジウムの様子は全文、のちにHPで公開されるとのことです。詳しく知りたい方、期待しちゃいましょう。今回カエルはすこーしだけ、印象なんかを書きたいと思います。

**内容は?**

会場の人々は男女ほとんど半々くらいで、年齢もかなりばらばらでした。若い大学生風の方も多かったですよ。あと目立っていたのはシスターの方々。白い布や黒い布をかぶっていらして、なんか神秘的。ここは上智なんだって実感。

今回のシンポの目玉は、何といっても町野さんと森岡さんの直接対決です。大ざっぱに言うと、脳死臓器移植を推進すべきとする町野さんVS慎重にいきたい森岡さんとマシアさんというかんじ。

一番わかりやすかった町野さんと森岡さんの対立は、ズバリ「日本の脳死臓器移植法は世界に向けて発信できるか?」ということです。町野さんはもちろんノー。発信すべきほどのものでないと言う。一方、森岡さんは「5月×日講演会」でも言っていたとおりイエス。日本は世界的にみて脳死議論の水準が高いと言う。30年間議論してきた国は世界的に類がない。日本の臓器移植法は世界に誇っていいんじゃないか、と。

町野さんはひとりひとりの「死の自己決定」は尊重されなくてはならないって言ってる。脳死になったら臓器を取られたくないという意思は尊重されるべきだ、と。でも、それでも「人は、いのちを次の人へつないでゆくという本性をもっているはずだ」って言い切る。ボクとしては、そこに町野さんの矛盾を強く感じます。なんかすっごく強引。こんな言い方ってあり?っていうか、こんなこと平気で言う人が厚生省の中で大きな発言権持ってるの?町野さんってなぞ。

あと、町野さんの前半のお話は、臓器移植法の細かい専門の内容で、カエルには何を言ってるんだかさっぱりわかりませんでした。もっと知識がない人でもわかる言葉で言ってほしいよ〜。けろ。

だけど実際、町野さんと森岡さんともに「死の自己決定は尊重すべし」とか同じ意見のときもありました。森岡さんも「町野先生と共通の意見の部分もある。ですが、今回はその違いを強調してしゃべりたい。」と言ってました。そこで、森岡さんは日本の臓器移植法の誇れる点を3つあげています。

ひとつ目は「死の選択を認めている」ということ。「脳死」を死として死んでゆくか「心臓死」を死として死んでゆくか、本人が選べる。日本では脳死を死と思っていない人はコンスタントに3割いる。その3割の人を保証しているのが、日本の臓器移植法。脳死を死と思わない人を守って移植をしようとしている。これはとてもいいことなのではないか。「脳死」とは移植を可能にするためにできた概念のようなものと言える。そこを隠蔽せずにきっちり書いているこの法は評価できる。

ふたつ目は、本人の意思原則を前提条件にしている。この法は本人の思想を生かしてあげようとしている。これは非常に現代的な思想といえる。移植はなぜ必要なのか、なぜ移植をするのか?それは、脳死になった本人の善意を生かそうということ。それが前提になっている。それをみんなで保証してゆこうとしたのがはじまり。だから本人の意思があるときのみ、移植をしようという非常に筋の通った思想。本人の気持ちをみんなで生かしてゆくものだ、という法は評価できる。

みっつ目は全員納得するところからスタートすること。しなきゃよかった、ということがないようにしている。移植したくない人はしなくていいし、したい人はしてよいという選択権がきちんとある。臓器の数が少ないから法律を改正しようというのは、本末転倒。後悔する人を出さないようなこの法は評価できる。

あともうひとつ、臓器移植法に絡んだことです。

15歳未満の子どもの脳死をどうするかという問題がある。私は子どももドナーカードを持つことを許すという立場。しかし、ご存知の方もいるかもしれないが、毎日新聞の独自調査によると、子どもの脳死140例のうち4例は親の虐待によって脳死になっている。虐待をして脳死にさせて、さらに臓器を取り出すという最悪の虐待がありうるわけです。この問題をどうするか?子どもからの臓器摘出はより制限するべき方向でゆくべきだという考え方もできる。

ここからは臓器移植に絡んだ「宗教」についてのお話です。森岡節さくれつです。

人前で言うときはこうして断定しているが、ひとりの人間としては揺れている。生と死って何だろうとか、医療って何だろうとか、揺れている。研究会や講演などでは伝わるのだが、論文では伝わりにくい。移植を受けたい人は人類愛を受けたいのではなく、生き延びたいという生の執着からはじまっている。しかし、その生の執着を悪いといえる人はどれだけいるのか。私は脳死論慎重派と位置づけられて現場にいた。移植反対の人の中に「そこまでして生き延びたいか」という人がいる。脳死が語られる現場にいて、こんな水掛け論がいっぱいあった。非常に不毛です。「あなたのせいでこの子どもが死んでゆくんです」と言われる。こういう言い方こそ、一番不毛なのです。それはわかっている。自分の子どもが移植が必要になったとき、どうするのか。この子のためにといって街頭で募金を募るかもしれない。この私はそういう人間です。しかし、人間はこういうもの。

けれども、その時に誰かが私を止めて欲しい。時に行動が反転する。それが人間のリアリティです。私はこのあたりきちんと言葉にできていません。しかし「宗教」とはそういう人間性に直面したときにでてくるのではないか。底なし沼のような人間の深さ。そういう人間の泥沼さを描ききったら、これは文学のテーマになるのではないか私ははやく大学をやめて書きたいのですが(笑)。

「いるはずのない人がここにありありといる。」脳死を経て子どもをなくされた人のなかでは、この2つのリアリティで引き裂かれている。ありえるはずのないことが、ここで起きている。集中治療室で起きている。その直感も「いのち・宗教」と通じるところがある。

森岡さんはドナーカードをもっているそう。でも裏には「私はドナーカードによって意思を表明しません」と書いているんですって。一方、町野さんはちゃんと記入してもっているようです。

臓器移植法の改正の動きは、実際どうなっているのか、という質問が会場から出されました。町野さん曰く、「改正案の動きはどうなっているのか、私はわからない。だから私の案を厚生省の案と考えないで下さい。脳死を人の死としない『金田案』がもういちど出るという話がある。」ですって。ほんとに何にも知らないんですかぁ〜? なんか知っていそうな町野さん。疑ってしまうカエルでした。

ひとつ気になったのは、会場に来ていた某臓器移植反対団体の人々の態度。背広の男性の町野さんに対する攻撃的な質問。そして質問を言い終えると会場のあちこちにいた会の人々が一同に拍手したりして、なんか総会屋みたい怒る気持ちもわかるけどさ、議論できないじゃーん

司会の青木さんも最後におっしゃってましたが、とにかく「脳死」という問題は常に考え続けなきゃいけないことだな、と実感。日本は30年議論ばっかしてたそうですが、まだまだ議論しててもよさそうです。けろけろ。

・森岡さん情報

岩波書店の「世界」9月号に脳死臓器移植についての新論文が掲載されるそうですよ。
 

 


  Kael Studies Homepageへ戻る